ドクターMの回想録

アフリカ紀行(4)

198×年4月、私と友人のOは2人、アフリカへと旅立った。
行く先不明、旅程不明のあてのない旅だった。
ケニアのビザは取ったが他の国のは時間の関係で無理。到着当日のナイロビのホテルのみを予約して出発。行き当たりばったりではあるが、何とかなるだろう。
医師になる前夜のコトである。そのときの旅日記が残っていたので、この際デジタル化しておこうと思う。

(カッコ内は後で付け加えた独白です。またお金のレートなどは当時のものです。)


5月5日

9時にオフィスへ。9時半出発。

今回はキャンピングサファリである。同行者はUKの女性2人。
途中の昼食会。その時もう一台のサファリカーと合流、2台でキャンプすると言うことらしい。
UKのおじさん、アラビアの石油会社で働いている、UKの青年、根っからの放浪人でセイシェルなど世界を点々としている夫婦が合流である。

夕方着いて薪集めの後、テント設営。夕食の準備が整うまでgame parkへ。動物が多い。
lodgeで休憩の後テントの戻って夕食。同行のコックさんが作った食事はうまい。話にもよく加わってみんなとも仲良くなった。

(日本にはコンピュータ制御の米を炊く釜があるという話で盛り上がった)


キャンプサイト

キャンプは草原の真ん中で、すぐ近くまで動物が来る。たき火を囲んでみんなで話をしている間にも、すぐ近くにハイエナやジャッカルの声がする。久しぶりにテントで寝た。

夜中、近くに何かが来ている気配がした。何か冷たいものが手に触ってびっくりしたが、朝見ると小さなカエルがテントに来ていた。
朝方、大きな動物の鳴き声で目を覚ました。


薪拾いもセルフサービス

(サファリならキャンピングが絶対にお薦め。食事をしているそばからバブーンに食べ物をかっさらわれた)


今日もサバンナに日は沈む


5月6日

朝7時半より朝食。アメリカンスタイル。
8時よりサファリ開始。ここマサイマラは本当に動物が多い。昼過ぎ帰る途中、ライオンに遭遇。昨日張ったテントのすぐそばだった。夜中にライオンが近くに来ても何の不思議もない。
途中ちょっとだけタンザニアに入った。


サバンナにスコールがやってくる

(もちろんキャンプサイト周辺はライフルを持ったレンジャーが見張ってますよ)


キリンが絵になる

今までのコース

ナイロビ→モンバサ→マリンディ→モンバサ→ダルエスサラーム→カピリムポシ→ルサカ→リビングストン→ジンバブエ→ルサカ→ナイロビ


5月7日

朝7時起床、テントを畳んでいると昨日lodgeで会った日本人夫婦がキャンプに遊びに来た。ナイロビからモンバサに行くそうで、情報を交換すると大変喜ばれた。この夫婦、去年12月ごろから海外にいて、インド、エジプト、ヨーロッパを廻ってきたと言う。何をしている人であろうか。


歩いて迫り来るハゲコウ(高さ約1m)


こちらを窺うジャッカル

そうこうするうちに朝食。コーヒーの後、出発となった。
一旦lodge に行き、用を足してから出発。しばらくしてピューマに出会う。しかし遠いため、必至で追いかけたが逃げられてしまった。子連れ。
写真が撮れなかったのは残念。


ピューマを追うサファリカー

今日もライオンの母子に会う。


母子

その後遅い昼食のあとナイロビへと戻る。
Rift valleyの深い崖に転落した車を見た。3時すぎナイロビ着。キャンプで聞いた情報をもとにナイロビYMCAへ。三食付きKsh150安い。夜、風呂に入り洗濯して就寝。


5月8日

7時起床。7時半朝食。コーヒーを飲んで少しゆっくりしてからチェックアウト。
町まで20〜30分歩いてOakwood hotelチェックイン。JALのオフィスで成田→福岡を予約。
昼食は「AKASAKA」で1人600円程度の日替わり定食、ミックスフライ。
久々の日本食。エビが20センチくらいある。アメリカ大使館で1年間のビザ取得。比較的簡単に無料で取れた。レコード店などを見て回って5時ホテルへ。
6時頃日本の自宅に電話。変わったことはなさそう。
夕食後ホテル内のビデオで"sprash"観る。懐かしい。


5月9日

少しお金が余ったので買い物でもしようと街に出た。ふらりと入ったAfrica Cultural Galleryという所でマコンデを観ている打ちに目を引く作品があった。
Female spiritという題のついた作品だ。値段は何とKsh12950という。交渉の末Ksh8500までになった。それでもの本円で7万円強。高い。凄く気に入ったが高いことは高い。
観ているうちに益々欲しくなる。Oはもっと負けさせろと言うが、値段交渉はあまり得意でない。

確かによく見ればプリミティブな彫り物とも言える。しかしここで買っておかないときっと後悔するような機がする。行ってみれば高い安いは好みだけの免田医である。
芸術とは何だろう。それは単に木のかたまりではあるが、ひとたび自分の心のどこかを刺激し、何かを感じさせてくれるなら、それはもう自分の中で芸術と呼んで差し支えないだろう。
いろいろ土産は買ったが今まで自分が本当に欲しいとおもったものはなかった。ところがこれは何かを感じさせる。他の店も見て回ったが、やはりこれが一番洗練された、心を刺激する作品に思える。
明日はいよいよケニアを離れる。これを買うかどうかは今日のうちに決めなければならない。


5月10日

朝7時起床。風呂に入る。これから2日間は機内のためさっぱりしておきたい、
9時朝食。
さて昨日来迷っているマコンデだが、やはり買おうと思う。ちょっと高いがもうケニアに来ることもないかも知れない。後悔するよりは良いだろう。
10時ギャラリーへ。今一度交渉するもKsh8500からは引かず。ついに8500で購入。満足の行くものなのでよしとしよう。

(小物講座参照)

思いマコンデを抱えて34番バスで空港へ(タクシーならKsh100のところバスはKsh4.5)。11時半、空港到着。Kshが360ほど余ったので銀行で$と両替。
午後2時半、チェックイン。マコンデの包みがsecurity checkで破られると困るなあと思っていたら、チェックの人が何かおかしな手の仕草をする。賄賂ね、と言うことでKsh10をそっと渡してそんなりpass。たったKsh10で悪かったような気がした。
take offまであと1時間半もあるので、duty freeなど見て回るも大したモノなし。

40分遅れで4時40分、中継地カラチに向かって離陸。
アフリカの大地よさようなら。1ヶ月前に初めて目にした大地が広がっている。雨期最盛期の大地は湿潤な緑と雨色の水たまりにいくぶん大きな面積を占められている。雲は低く、ある部分では強烈な太陽を、ある部分では湿潤の雨を眼に見える形で与えている。何百年変わることのない大地と緑はやはり何百年変わることなく繰り返された雨期と乾期によって造られた。ミルクティー色の河が流れる。この豊かな水によって培われた緑が多くのエネルギッシュな人々と沢山の動物を養っている。
「アフリカの水を飲んだ者はアフリカに帰る」古い大陸アフリカ、新しく生まれ変わりつつあるアフリカ。この巨大な大陸に私はもう一度帰ってくることがあるだろうか。


アブダビ時間5月10日 午後11時

第一中継地アブダビ着。約30分のtransit。夜でよくわからぬが、砂漠の中に忽然と出現した空港である。大変立派な建物で内部も神秘的な色彩のタイル張りで美しい。
清潔で近代的、duty free shopの品も最新カメラ、電子機器など品数は豊富。
石油の国はお金持ちである。

(アブダビはアラブ首長国連邦の一つ。最近はドバイなどが有名ですね)


5月11日

カラチ時間午前3時着。
上空から見るカラチは真夜中の3時とは思えない程美しい夜警が広がる。所々に浮かぶ薄い雲の間から見える真夜中のカラチは夢のように美しい。
中近東の宝石のように、寝苦し夜の闇にちりばめられた数多くの光の点のもとにPakistanの人の生命がある。
やがて無数の光の点は少しづつ形をなし光の条となり、その条に導かれて地上に降り立った。

午前3時だがアブダビよりむしろ暑い。通関のあと、PIAの用意したホテルへ迎えの車で入る。風呂に入ってからこれを書いているが、もう朝方4時半を過ぎる頃だからだろう、どこからともなく良く通る声でコーランの祈りの歌が聞こえてくる。

ここは中近東Pakistanである。


5月11日

4時半に寝たため10時ごろ目覚めたのもかかわらず眠い。多少時差ぼけかも知れない。朝食後ロビーでくつろいでいるとcity tureの声を掛けられる。2人でINR(インドルピー)225。申し込む。11時ごろから出発。
モスクや洗濯所、瑪瑙の加工場などを観てまわる。


洗濯場


カラチの石工

モスクでは残念ながらコーランを聞くことは出来なかったが、内部はエコーが効くように設計されており、天井には8000個のガラスが埋まり星空を表現している。短パンをはいていたら白衣を着せられた。


短パンに白衣のマヌケ姿

Oは瑪瑙の細工場でカップや革製品を買った。私にはマコンデがあって持ちきれないため断念。午後1時ホテルに帰り昼食。インドカレー、本当においしい。
ホテルのショップで小さな古いランプを購入、また荷物が増えたぞ。

3時ホテル発、空港へ。比較的すんなり通関。5時20分のbordingを待っているところ。

パキスタン、カラチは大都市である。少々暑く(4月は40℃にもなるという)、ほこりっぽいが物価も安いし物資も豊富である。
空港にはターバンを巻いた人、ブイブイを着た女性、白い衣に身を包んだ人々が殆どで、やはり中近東を感じさせる。


5月11日(日本時間で5月12日午前1時30分)

カラチを6時半発、バンコクへ向かう機内。
機は刻一刻成田に向かって飛行している、

言葉は何でも語ってくれるが、、しかし何も真実を教えてはくれない。常に自分の肌の触覚のみがそれを理解することが出来る。人間は大地と空のほんの少しの空間に貼り付いて薄く広く生きている。一生自分の世界だけが全世界であっても良いかも知れないが、今まったく異質の世界が広がっていることを肌で感じることができたのは何かまた一つ眼がひらいたような気がする。


5月12日(日本時間午前5時30分)

バンコクでtransitの後、再びマニラに向け出発。空港ではやはりアジアに戻ってきたという実感が強い。東洋系の顔が多く、今まで見慣れてきた黒い顔が1人もいない。
バンコクで機のクルーが交代し、日本人のスチュワーデスも乗ってきた。機内アナウンスに日本語が加わる。

日本はもう近い。


5月12日(日本時間午前7時30分)

マニラ着。約1時間待ち合わせ。あと3時間で日本である。

12時15分、成田着。すぐに家に電話。
17時55分発の福岡便を予約。

6時丁度、成田発。
眼下に広がる関東平野。日本は何と水の豊かな国なんだろう。水田には豊に水が満ち、川は清く流れる。荒削りでダイナミックな力強さを感じさせたアフリカの大地と何と違うことだろう。
この国には静かさとしっとりした落ち着きがある。大地の歴史はアフリカより短いけれど、その上に培われた文化と人の歴史は永遠ほど永い。その歴史に寄り添う緑と碧の大地は何と静寂の下にあるのだろう。
雲さえ優しく極東の小さな真珠を包んでいる。

8時50分、福岡着。
北九州行きのバスの中で隣に座ったサラリーマン風の男が私の大きな荷物に迷惑そうな顔をした。アフリカでは一度も見たことのない顔であった。
日本は豊で美しい国である。でももしかして人の心は少しすさんではいまいか。
豊かさの中に置き忘れてきたものはないだろうか。
なんだか少し哀しい気分になった。


私のアフリカ日記はここで終わっています。
約1ヶ月東アフリカの4カ国を巡りました(ジンバブエはほんのちょっとの時間でしたが)。たかが1ヶ月の旅でアフリカの何がわかるかとも思いますが、私の人生の中ではかなり強烈な印象の旅でした。

アフリカ。大地は悠久の歴史を秘め、人々は今なおエネルギッシュに発展を遂げています。時には内戦があったり治安が不安定だったりしますが、私が出会った人々は底抜けに明るく、人に親切でした。
どうして見ず知らずの兄ちゃんが案内なんかしてくれるんだろう?貴重品とか隠しておこうなど思ったものでした。しかし、幸いにして私たちは親切な人々と出会い、快適に旅を続けることが出来ました。

今、アフリカの旅の証拠は日本に帰化して20数年、すっかり日本人のようになったマコンデと一冊の古い写真帳だけですが、私の心の中では「アフリカの水を飲んだ者はアフリカに帰る」という言葉が未だに私の耳元で小さな声でささやきかけてきます。


おしまい